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生きた学芸活動の展開 霞ヶ浦常民交流博物館
|麻生藩新庄氏外様小藩のすがた|新撰組水戸派へようこそ奈良大学で学んで行方を探ろう
麻生藩新庄氏外様小藩のすがた −新庄氏を支えたユニークな家臣たち−
 
 
  麻生藩の家臣像を譬えて巷では「新庄の守りに勝ったる畠 神田 三好(舳)なくては舵は取れまい」とうたわれていました。特に、麻生藩設立当初は新庄一族の知行高が高く、次いでこの落首に登場した畠氏、神田氏、三好氏の3氏が上位を占め、一万石時代になるとこの3氏が筆頭となります。ここに麻生藩新庄氏の家臣たちの構成の特徴の一端がみられます。
  畑(畠)氏、神田氏、三好氏の3氏は、新庄氏のゆかりの地、近江国周辺において新庄氏と同格、あるいはそれ以上の家柄や勢力を振るっていた武将たちでした。『士族卒身元調査』(三好貞良家文書)では、三好七郎右衛門は摂津飯盛城主で織田氏に滅ぼされた後浪人となっていましたが、新庄直定(なおさだ)と従弟の関係にあったことから新庄家に寄遇したと記されています。また、畑鎮雄と神田吉哉は近江地方の城主であり新庄家と相応じて祭祀を保有している名門であり家臣ではないとまで言及しています。
  また、信濃の戦国武将である村上氏の末裔とする百瀬氏、坂上田村麻呂の末裔で摂津平野荘の豪族であった平野氏、織田家臣森蘭丸の末裔とする森氏、あるいは越前の戦国武将朝倉氏の末裔である朝倉氏など、戦国時代の動乱や関ヶ原の戦いで浪人になった旧城主層やその家臣たちを招き寄せて家臣団を編成したものでした。
  このほか、陣屋を構えた麻生地方の旧館主である旧鳥名木館主の鳥名木氏、旧小貫(西蓮寺)館主の小貫氏、旧手賀城主の手賀氏、旧八甲城主の下河辺氏などが召抱えられており、譜代の家臣たちでない特徴ある家臣構成は、幕藩体制の新しい秩序づくりのすがたを示しているのかもしれません。
  第4代藩主新庄直時(なおとき)は、俳諧を嗜み、号を蓬窓あるいは憐風として「名月に魯般か梯や銀河」などの句を残していますが、麻生藩士に松尾芭蕉の高弟のひとり「梅一輪いちりんほどの暖かさ」を詠んだ俳人服部嵐雪がいます。直時が直矩に家督を譲った延宝2年(1674)に根本寺住職となった高僧仏頂禅師は、鹿島神宮との訴訟のため江戸深川の臨川庵に滞留していた際、芭蕉との親交を深めました。また、仏頂禅師のゆかりの大儀寺のある阿玉村は当時麻生藩領であり、嵐雪は延宝元年に芭蕉に弟子入りしていることなどを考えると、直時、仏頂、芭蕉、そして嵐雪の俳諧をとおした関係が想定され、史料の発見が待たれます。
  時代が下って、上方に発生した狂歌は江戸に伝播され天明期(1781〜88)には急速に周辺に広まりました。常陸地方で狂歌の拠点となったのは麻生と江戸崎でした。麻生で中心として活躍したのは狂歌堂真顔派の国字垣歌志久(かながきかしく)でした。歌志久は麻生藩士の手賀弥太郎で、藩政改革でも人口政策などに関わった有能な人物でした。また、文化文政期(1804〜29)は、江戸では滑稽本がブームになり式亭三馬などが活躍していました。十返舎一九もその代表的な人物であり、『方言修行金草鞋』では潮来・行方地方の旅を題材に狂歌を詠みこんだ作品として発表しています。この作品の取り組みについては、歌志久を中心とした国字垣連と、一九との交流の足跡が隠されているのかもしれません。

 

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